札幌に「かでる27」という名前の建物があります。
この「かでる」という言葉を聞くたびに、とてもなつかしい
気持ちになります。「かでる」は北海道の方言で、「仲間になる」
というような意味です。今ではほとんど死語になってしまい
ましたが、私が小学校の2,3年の頃はまだ使っていました。
35年くらい前の事です。 友達が遊んでいる所へ加わりたい時は、「私もかでて−。」と 言いました。「仲間に入れて−。」ということです。 いつの間にか私自身も使わなくなってしまいました。言葉が テレビなどの影響で標準語化していったせいなのでしょうか? 小さい頃はもっと沢山の北海道弁を使っていたような気がします。 息子の世代は「かでる」と言う言葉を知りません。おじいちゃん、 おばあちゃんと一緒に暮らしていない限り、耳にすることは きっとないと思います。 地域に根ざしたその地方独特の言葉が消えていくのは、ちょっと 寂しい気がします。 (2000.11.16) |
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息子が中学一年の時、授業参観の後の話し合いの時の先生の
話で、忘れられない話があります。 その先生の息子さんが高校生の時、息子さんの友人が突然、自ら 命を絶ってしまいました。息子さんは、その友人を親友だと 思っていただけに、何も相談してくれずに逝ってしまったことに 強いショックを受けました。部屋に閉じこもるようになり、 そうしてついには学校を退学してしまいました。 このことでは、先生自身もいろいろな面でかなりのショックを 受けたそうです。 亡くなった友人の御両親と話した時、「どんな状態であっても いいから、ただ生きていて欲しかった。」と言うのを聞いて、 「ああ、本当にそのとおりだ。」と強く思ったそうです。 自分の息子さんと向きあう時も、「生きていてくれるだけで いい。」と思うようになりました。教師としての考え方もガラリと 変わりました。 最後に先生はこう言いました。「お母さん、自分の子供が生きて いる。ただそれだけでいいんです。死んでしまっては何もならな いんです。生きている、それが一番大事なのです。」 泣きながらの言葉は、聞いている全ての人の胸に響きました。 その後、先生の息子さんはショックから立ち直り、大検を受け、 今は自分の好きな道を目ざして、大学に通っているそうです。 あの時の先生の言葉は、今も時々思い出します。 「自分の子供が生きている。ただそれだけでいいんです。」 (2000.12.10) |
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我が家には、とても大切にしているサルビアがあります。
そのサルビアは、種から育てたものです。息子が幼稚園の
年長組の時の秋、もらった種を蒔きました。芽が出て、花が
咲かないうちに冬が来てしまったので、かわいそうに思い、
家の中に入れました。 それからは、冬が来ると必ず家の中に入れるようになりました。 毎年、古い根を取り除き、新しい土に植え替えて、を繰り返し、 気がつくと、もう丸10年です。その間に息子も、幼稚園、小学校、 中学校、高校とどんどん大きくなりました。サルビアは息子の成長と 共にありました。 外は連日マイナス10度以下の寒さです。でも、我が家の サルビアは元気いっぱいで、たくさんの赤い花を咲かせています。 これからも大切に育てていこうと、思っています。 (2000.12.16) |
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主人も息子も二人とも泊まりがけで出かけてしまい、ぽつんと
一人になりました。いつもは忙しくて「あれもしたい、これもしたい。
でも、時間がないわ。」と言っているのに、いざ一人になると、なにも
手に着きません。あんなに望んでいた一人の時間なのに。本当の
ひとりぼっちって、寂しいものなんですね。 忙しくても、騒がしくても、家族がいるということはとても大切な 事だと思います。 普段は当たり前すぎて気がつかないけれど、平凡な日常生活の 中にこそ、私達が大切にしなければならない、本当の幸せが あるのです。 さあ、今日帰ってくる主人と息子を、精一杯の笑顔で迎えましょう。 そして、心をこめて「お帰りなさい。」と言おう! (2001.1.13) |
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ちょっとオ−バ−ですが、我が家には世界にひとつしかない
おひなさまがあります。それは、息子が作ってくれたおひなさま
です。 小学校3、4年の頃、私がおひなさまを持っていなくて、今でも ほしいと思っていると言うと、「ぼくが、おかあさんのために作って あげる。」と言って、一生懸命作ってくれました。 ひな壇は、ティッシュの空き箱に赤い画用紙を貼ったもの、 おひなさまは、色紙で作ったものでした。お内裏様、お雛様、 三人官女、五人囃子、どの顔もとても優しく、わたしにほほえみ かけてくれています。 「できたよ!おかあさん!」そう言って持ってきてくれたおひなさまを 初めて見た時、思わず涙がこぼれそうになりました。 息子の気持ちが、痛いほど私の胸に伝わってきました。 何度も何度もありがとうを繰り返す私に、息子は「おかあさん そんなにうれしいの?」と言って、とても満足そうな顔をして いました。 今年もひな祭りに、息子の作ってくれたおひなさまを飾りました。 高校生になった息子は、「今でもその変なおひなさまを大事に しているんだ。」と憎まれ口をきいていますが、自分の作った おひなさまを見て、照れくさそうにほほえんでいます。 (2001.3.5) |
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この名前の料理の存在を知ったのは、つい最近のことです。
バタ−で炒めたタケノコご飯の上に薄い豚カツとソ−ス。その横に
キャベツとポテトサラダ。 これは根室市民なら誰でも知っている定食だそうです。 地元の素材が使われているわけでもないのに、この奇妙な名前の 料理は観光誌でも、紹介されているとのこと。 この料理が誕生したのは今から30年ほど前です。当時は子牛の 薄切り肉を使っていて、名前も薄切り肉を意味するフランス語を もとにした「エスカロピン・ブレッド・フライ・ライス」という 長ったらしいものでした。 それを、客として来ていた根室高生が略して今の名前になり ました。そして肉も豚肉に変わっていきました。 同じ北海道に住んでいて、しかも根室へも行ったことがあるのに、 この料理の存在は知りませんでした。根室といえば、かになどを 思い浮かべるだけに、ちょっと意外でした。 30年前に根室で生み出された料理が今もずっと残っていて、 しかもそれを目当ての観光客まで来るというのだから、よほど おいしい料理に違いないのではと思います。 それにしても、料理にもいろいろあるものです。一人の人が 工夫して作り出した料理が、こんなにも愛されてずっと残って いるとは、感動ものです。 「料理は工夫と愛情」と言った人がいますが、まさにその通りです。 近頃メニュ−がマンネリ化している主婦の私には、耳の痛い 言葉です。 (2001.3.21) |
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先日、新聞の子育て欄に「なかなか離乳食が進みません。」との
相談が寄せられていました。読んでいて息子が離乳食を
食べ始めた時の事を思い出しました。息子の場合、普通の子より
少し早めに離乳食を始めました。というのは、息子が私の
おっぱいを上手に飲んでくれなくて苦労していたからです。それなら
いっそのこと早く離乳食に切り替えてしまおうと思ったのです。 どろどろべたべたの重湯のようなものを、ひとくち食べさせるところ から始めました。最初から急にたくさん食べさせると、おなかを こわすおそれがあるからです。 「ペッ」と吐き出したらどうしようと、おそるおそるスプ−ンを口に 当ててみました。そうしたら、なんの抵抗もなくパクッとスプ−ンを くわえ、重湯をおいしそうに食べました。スプ−ンを口から出すと、 もう一度スプ−ンをくわえようと、体を乗り出してきました。 「これはいける!」そう思った私は次の日からどんどん離乳食を 進めました。 息子はおなかをこわすことも、食べ物を拒否することもなく、順調に 離乳食を食べていきました。今考えると本当に楽だったなと 思います。 息子が離乳食を食べ始めてから、1歳の誕生日を迎え大人と ほぼ同じものが食べられるようになるまで、毎日息子の食べた ものを記録しました。 記録していた当時は「こんなことして何かの役に立つのかな?」と 思ったのですが、今改めて見てみるとなつかしいです。親の 自己満足かもしれないけれど、貴重な育児記録のひとつになって います。 (2001.5.22) |
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もう40年近く昔のことです。小学校1年生だった私は、朝両親が
「今日は時の記念日だね。」と話しているのを聞きました。
学校へ行って朝礼があり、全校生徒が体育館に集まった時のこと
です。校長先生が「みなさん、今日はなんの日なのか知って
いますか?」と言いました。私は元気良く手を挙げ、「はい、時の
記念日です。」と答えました。
校長先生は「良く知っていますね。」とほめてくれました。私は
ちょっぴり得意顔になったのですが、次に校長先生は私にこう言い
ました。「どんな日なのですか?」
私は答えられませんでした。両親が言った言葉をそのまま言った
だけで、その日がどんな日なのかを正確には知らなかったのです。 あの時の何とも言えない思いは鮮烈に私の記憶に残り、毎年 6月10日がくるたびに思い出しては、苦笑しています。今日も 思い出していました。 ちなみに「時の記念日」とは、671年4月25日(陽歴6月10日)に 中大兄皇子、後の天智天皇が日本初の時を告げた日でした。 「漏刻を新しき台(うてな)に置く。始めて候時(とき)を打つ。」 (「日本書紀」より) (2001.6.10) |
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1978年8月4日、私のいとこのえりちゃんは、朝いつものように
元気に、会社へ行くお父さんを見送りました。えりちゃんが面白い
ことを言うものだから、お父さんは笑いながら出かけていきました。
その日はとても暑い日でした。でも、えりちゃんは元気に友達と
家で遊んでいました。 しかし突然えりちゃんはお母さんに「あたまが痛い。」と訴えます。 吐き気もするらしいので、お母さんはえりちゃんをベッドに寝かせ、 お友達には帰ってもらうことにしました。 お友達を送ってえりちゃんの様子を見に戻ったお母さんは、 びっくりします。えりちゃんが白目をむいているのです。「えりこ!」 お母さんが叫びましたが反応はありません。救急車を呼ぶよりも 近くのタクシ−で病院へ行ったほうが早いと判断したお母さんは、 近所に住む義姉と一緒にえりちゃんを腕に抱きかかえ、病院へと 向かいます。しかし、えりちゃんはだんだんお母さんの腕の中で 冷たくなっていきました。 病院へ着いたときには、もうえりちゃんは帰らぬ人となって いました。突然のことでした。死因は脳内出血。えりちゃんはまだ 9歳でした。 突然の訃報に、誰もが泣きました。なかなか子供が出来なくて、 やっと授かった一人娘だったのです。逝ってしまうにはあまりにも 幼く、あまりにも突然でした。この悲しみはとても言葉では言い表す ことができません。 お葬式も無事済んで一息ついた時、えりちゃんのお母さんが一冊の ノ−トを見せてくれました。算数のノ−トでした。 がんばり屋のえりちゃんは、算数の課題をずい分先までやって いました。ノ−トの日付が8月4日、5日、6日、7日と続いています。 でもえりちゃんの人生は8月4日で終わってしまったのです。ノ−トを 見ながらまたみんなで泣きました。 あれからもう23年の月日が経とうとしています。でも、今でも えりちゃんのことを思うと、自然と涙が出てきます。えりちゃんの お父さんとお母さんの悲しみも、23年前のあの日から変わること なくずっと続いているのです。 えりちゃん・・。えりちゃんは、わずか9歳で逝ってしまった 私のいとこです。 (2001.7.30) |
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以前、同じ街に住んでいた私の友人。子供が同学年で同じクラス
だったことから知り合い、意気投合。家族ぐるみのつき合い
でしたが、6年前に転勤で離ればなれになってしまいました。
それ以来毎年夏、お互いの住んでいるところからほぼ中間に
当たる所でキャンプをしています。親同士はそれほど変わらないの
ですが、子供達の成長には目をみはるものがあります。どんどん
大きくなっているのだなあと感心する反面、もう私の年代になると
変わりようがないのだなと思うと寂しい気もします。 ともあれ自然の中での3日間は、普段の生活では決して味わう ことの出来ない経験を私に与えてくれました。毎日の生活にあくせく している私にとってはとても貴重な3日間でした。 来年の再会を堅く約束して、お互いキャンプ場をあとにしました。 (2001.8.15) |
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