天の夜曲(流転の海 第4部)  宮本輝
大阪で築いたものを全て失い、松坂熊吾、妻の房江、息子の
伸仁は富山へ向かう。しかし、富山で新たに始めようとした仕事に
不安を感じた熊吾は一人大阪に戻り、中古車事業を始めるために
奔走する。富山での母と子、大阪の熊吾、それぞれの試練の
日々が始まろうとしていた・・・。

昔の出来事を恨む者、信頼していた人物の裏切りなど、熊吾を
待ち受けていたのは様々な困難でした。そこに見えるのは、人の
心の不思議さです。人は様々なものを引きずって生きています。
そういうものが、時には自分自身を助けてくれたり、あるいは逆に
他人の恨みを買う原因を作ったりします。でも、そのひとつひとつは、
全て自分の行いから生じたものだということを、忘れてはいけないと
思います。
人を包み込む「運命」。その中で熊吾一家は果たして、どんな道を
たどるのでしょうか?いつの時代でも、どんな状況でも、凛として
生きようとする熊吾。「彼の行く末をこれからもずっと見守りたい。」
そう思わずにはいられません。


センセイの鞄  川上弘美
「大町ツキコさんですね。」一杯飲み屋で声をかけてきた男性は、
20年前の高校時代の先生だった。その日からツキコとセンセイの
おだやかな、そしてほのぼのとした愛が始まる・・・。

さりげない日常の中ではぐくまれる二人の愛。決して情熱的でも、
激しくもないけれど、しっとりと心にしみこんできます。センセイは
ツキコを広い心ですっぽりと包みこみ、ツキコはその温かさの中に、
何の憂いもなく身をゆだねます。
「好きだ!」「愛してる!」そんなありふれた言葉など言わなくても、
二人はお互いの心を理解し合えました。こんな形の恋愛もあるのだ
なと、つくづく思いました。
二人で過ごした日々はそんなに長くはありませんでした。でも、
とても充実した日々だったと思います。センセイが逝ってしまい、
一人残されたツキコがからっぽのセンセイの鞄をのぞきこむ姿に、
思わず涙がこぼれました。究極の恋愛小説でした。感動!


海辺のカフカ  村上春樹
東京中野区に住む少年、自称「田村カフカ」は、15歳の誕生日に
家を出る。「自分らしく、自分として生きる」ことを求めるために。
一方、同じ中野区に住む猫と話ができる老人「ナカタさん」もまた、
「求めるべきもの」を求めるために、少年と同じ西へと向かう。
現実と夢が交錯するような不思議な世界の中、それぞれの人々の
それぞれの魂の物語が始まる・・・。

現実から足を浮かせ、心をからっぽにして、日常の中にある常識を
何も考えずに読むべき本です。
人々が日々の暮らしの中でこだわったり、とらわれている観念、
そういうものが何の意味も持たないのではないかと、この本は
訴えかけてくるようです。人は何のために生きるのでしょうか?
今この世にある私たちの体は、魂を入れる単なる「いれもの」に
過ぎないのでしょうか?でも、それでも人は生きていかなければ
ならないのです。さまざまな出来事を経験して少年は、新しい
世界への一歩を踏み出そうとします。その姿にほっとして、なぜか
救われたような気持ちになりました。
「おのれを無にして読む」、感動的な作品でした。


三たびの海峡  帚木蓬生
1943(昭和18)年、17歳の河時根(ハーシグン)は父のかわりに
日本へ強制連行され、九州の炭鉱で働かされる。やがて終戦。
彼は日本人女性と二人で故郷に帰り、周囲の冷たい視線の中
必死に生きていくが、悲しい別れが訪れる。そして半世紀後、
彼はもう二度と越えることはないと思っていた朝鮮海峡を再び越える
ことになる。それは釜山に届いた一通の手紙がきっかけだった。

九州の炭鉱での、いつ死が訪れてもおかしくない過酷なまでの労働。
次々に仲間が死んでいく中、時根は歯を食いしばり生き抜きます。
この時に心に深く刻み付けられた無念の思い、恨みは、半世紀を
経ても決して消えることはありませんでした。
架空の物語であっても、ここに書かれている朝鮮の人たちへのむごい
扱いは事実です。戦時中、こんなことをしていたのかと思うと、同じ
日本人として恥ずかしく、そして申し訳ない気持ちでいっぱいに
なります。人間として扱われないほど、ひどいことはありません。
この作品は日本人なら絶対に読むべきものだと思います。
この歴史的事実を風化させずに、二度とこのようなことを起こす
ことのないように、戒めにすべき本ではないでしょうか。
「三たび」・・・。この言葉の本当の意味はラストでわかります。
三度目の海峡越えは河時根にとっていったい何だったのでしょう?
1人の男の心のひだに触れたとき、悲劇の歴史はさらに私の胸を
打ちます。


翼  村山由佳
父の自殺を目の当たりにしたことによる心の傷をかかえ、母からの
言葉の虐待を受け続けた真冬。
「お前は呪われている。」「お前はみんなを不幸にする。」
彼女は、その言葉の呪縛からのがれることができなかった。
そんな真冬の前に現れたラリー。真冬はラリーと人生をともに
歩もうと決心するが、思わぬ悲劇が二人を襲った。

幸せそうに見えても、何も悩みがないように見えても、人は内側に
様々な思いを抱えています。そして、誰かを傷つけながら、自分も
傷つきながら生きていきます。いや、そうしなければ生きていけない
のです。
財産、人種、家族、さまざまな問題が人の心を醜く変えていきます。
はたして人の心の真実はどこにあるのでしょうか?
「真実は見えないところ、聞こえないところ、触れることができない
ところにある。」と言う、ナヴァホの老人の言葉がとても印象的です。
愛されることも愛することも知らずに育った真冬が、憎しみの
渦の中から愛することの意味をつかみとっていく姿は感動的です。
これからの彼女の人生が、愛にあふれた幸せなものでありますようにと、
ただ祈るばかりです。


椿山課長の七日間  浅田次郎
「このまま成仏するわけにはいかない。」
過労で突然死した中年課長の椿山和昭には、やり残したことが
たくさんあった。七日間だけという条件でこの世にもどってきた彼は、
果たして思いを遂げられるのだろうか・・・?

どんな人生を送っても、これでいいという満足感を得られることは
ないでしょう。人には「死ぬ前に、これだけはどうしてもやって
おきたかった。」という思いが必ずあると思います。その思いは
果たして、残される者のためなのか、死んでいく自分のためのもの
なのかは、わかりません。
椿山課長は、妻や、息子や、年老いた自分の父のことで心を
痛めます。けれど、人は愛する人を失った悲しみを乗り越えて
生きていける強さを持っています。死んでしまった者は、ただそれを
見守ることしかできないのではないでしょうか?
椿山課長も、一緒にもどってきたほかの二人も、最後に自分を愛して
くれた人たちにこう言います。
「ありがとう。」
その一言に、彼らの思いのすべてが込められていると思います。
生きること、人の命についてを改めて考えさせてくれる、ちょっぴり
切ない本でした。


誘拐の果実  真保裕一
大病院の院長の17歳の孫娘辻倉恵美が何者かに誘拐された。
犯人の要求は、入院している大企業バッカスの会長の命。
同じ頃、19歳の大学生工藤巧が誘拐された。犯人の要求は
7000万円相当のバッカスの株券。果たして、二つの誘拐事件は
関係があるのか?そこに隠されているものは?

二つの誘拐事件がほぼ同時に起こる・・・。そこにはある思いが
秘められていました。事件に振り回され、右往左往する大人たちが
哀れでもあり、滑稽でもあり、何とも言えません。
人は苦労してそれ相応の地位に上り詰めたとき、得た名声や
お金を必死で守ろうとします。そのため、時には人から非難される
ようなことを平気で行います。そういう大人たちの行為を、子供
たちはどういう思いで見つめているのでしょうか?
大人たちの醜い欲、それに真っ向から挑んだ子供たちの純粋な心。
誘拐は確かに犯罪です。しかしこの犯罪は、実りあるものを
それぞれの心に残しました。「誘拐」という事件が生んだ「果実」。
この意義はとても大きなものだったと思います。


永遠の仔  天童荒太
「神の山」と呼ばれる山に登れば自分は救われるかもしれない。
そう信じた少女久坂優希は、頂上をめざす。そんな彼女を支えたのは
二人の少年。三人は「山で優希の父親を殺害した」という秘密を
抱えたまま別れ、それぞれの人生を歩み始める。
そして17年後、三人は再会する。幼い頃に傷つけられた心は、
再会により新たな痛みに苦しめられることになる・・・。

大人たちの身勝手な行動から傷ついてしまった子供たちは、決して
傷つけた者を恨みません。むしろ自分たちに悪いところがあるから
いけないんだと、自分自身を責め続けます。しかし、どんなに自分を
責めても、救いにはなりません。
逃げ場のない、追い詰められた心。ずたずたに傷ついた心。
それは、成長し大人になっても、決してもとにもどることはありません。
人はいつまで、救われないままでいなければならないのでしょう?
憎いと思う相手を、心の底から真に憎めたら、どんなに気持ちが
楽なことか!
愛することと憎むことのはざまの中で、自分自身を抱きしめて生きて
きた優希と、梁平と、笙一郎。彼らにどんな罪があったというので
しょう・・・。
生きる価値のない人間なんて、この世にいるはずがないのです。
人には一人一人に、生きていくうえでの価値や理由がちゃんと
あるのです。
だからこそ、この本のラストの言葉が胸に突き刺さります。
「生きていても、いいんだよ。おまえは・・・生きていてもいいんだ。
本当に、生きていてもいいんだよ。」


定年ゴジラ  重松清
希望に燃えていた働き盛りの頃、ニュータウンに念願のマイホームを
持ち、家族のため、会社のためにと働いてきた男たちは、やがて
定年を迎える。定年後、自分の生きがいを探す4人の男たちの、
おもしろくも、ちょっぴり悲しい物語。

働いている人なら誰でも迎える定年。決して他人事ではありません。
ある時は父の世代の人たちを思いながら、ある時は自分たちの
未来の姿を思いながら読みました。
定年を迎えたとき、自分の生きがいを見失ってしまう人がたくさん
います。「粗大ごみ」「濡れ落ち葉」「わしも族」などなど、定年後の
男性をさす言葉は、残酷なまでにひどいものです。定年は人生の
一つの通過点です。決してそこで終わりではありません。その後も
人生という道はずっと先まで続いているのです。
くぬぎ台ニュータウンで繰り広げられる人間ドラマは、私にほのぼのと
した温もりを与えてくれました。作者の温かい思いも伝わってきます。
心に残る1冊です。


動機  横山秀夫
一括保管していた30冊の警察手帳が盗まれた。
周囲の反対を押し切り、一括保管という新制度を導入した貝瀬は
窮地に立たされる。内部犯行説もささやかれる中、彼は犯人捜しに
奔走する。犯人はいったい誰なのか?そして盗んだ動機は果たして
何なのか?表題作「動機」を含む4つの短編を収録。

4つの中ではやはり「動機」が絶品でした。家庭の中にも問題を抱え、
そして仕事上でも追い詰められていく彼の心理描写が見事です。
読み手にもその緊迫感が伝わってきます。一つ一つの事実。
その中から解決の糸口を見つけていく・・。そして意外性のあるラスト。
読み手を飽きさせない計算し尽くされた構成には、思わずため息が
出ます。
他の3編もやはり登場人物の描写が見事です。心の奥底をのぞき
込んだような描写は、読み手の心をぞくぞくさせます。人の心の弱さ、
もろさ、危うさ、そしてそこに待ちかまえる落とし穴。作者は鋭い目で
それをとらえています。ストーリーのテンポもよく、読後も満足感が
残る、読み手の期待を裏切らない作品です。