アンクルトムズ・ケビンの幽霊  池永陽
中学を卒業してから30年。章之は鋳物工場で働き続けてきた。
彼の心の中には、決して忘れることの出来ない一人の少女がいた。
スーイン。「北へ帰るわ」。そう言い残して彼女は日本を去って行った。
章之の思いは30年の時を経て、ある物に凝縮されようとしていた・・。

鋳物工場で働く不法残留のタイの青年たち。章之は社長から
強制送還されるように、入管に密告しろと言われます。
それは、未払いの賃金を支払わなくていいようにと、社長の考えた
ことでした。貧しさゆえに、日本に出稼ぎに来ている彼ら。社長は
そういう彼らの弱みにつけこみ、使い捨てようとします。貧しいとか、
日本人ではないとか、そういう理由で人を差別したり、見下したりする
ことは腹立たしく、悲しいことです。タイの青年たちと一緒に暮らす
フウコも在日三世というただそれだけで、自分の生きる道を見出せなく
なってしまいます。章之はそんなフウコに、初恋の人スーインの面影を
見ます。
貧しくても、まわりの人たちからの偏見と差別に耐えながら、懸命に
生きていたスーイン母娘。しかし彼女たちはついに「北」へ帰る決心を
します。彼女たちの居場所を奪ってしまったのは誰でもない、私たち
日本人なのです。恥ずかしい。日本人としてこれほど恥ずかしいことは
ないでしょう。
アンクルトムの小屋。30年前スーイン母娘が暮らし、章之が何度も
訪れた小屋のような家・・。そこに眠る物こそが、章之が長い間
ずっと求めていたものでした。封印された過去が姿を現したとき、
彼は本当に心の底から泣くことが出来たのではないでしょうか。
涙なしでは決して読むことの出来なかった感動の作品でした。


半落ち  横山秀夫
現職警察官が、アルツハイマー病だった妻を絞殺した!
一度は自殺しようと思った彼だったが、自首して、動機、犯行状況を
素直に供述する。しかし、犯行から自首までには、2日間の空白が
あった。いったい何があったのか?そのことについて彼は、決して
語ろうとはしなかった・・・。

死んだ息子のことさえ忘れてしまいそうになる妻。せめて息子を
覚えているうちに母として死にたいの言葉に、梶総一郎は、
妻の首に手をかけます。
壊れていく妻の最後の願いを、彼は断ることができませんでした。
生きる希望を失い自殺しようとした彼に、もう少しだけ生きていこうと
思わせた「空白の2日間」。この謎が、梶と関わる人間に重く
のしかかります。
警察官、検事、新聞記者、弁護士、裁判官、刑務官、それぞれの
視点から多角的に描かれたこの作品は、内容に幅と深みを感じさせ、
読む者をさらに惹きつけます。彼らのそれぞれの立場、それぞれの
思惑や利害関係が交錯する中、梶はただ黙秘を続けます。その姿は
一つの信念に貫かれ、凛としたものさえ感じます。
やがて、全てが明らかになったとき、言いようのない悲しさが
込み上げてきました。
梶が守ろうとしたもの、もう少し生きてみようと思わせたもの、
そして息子への思い・・・。
「もう自殺など考えずにこれからは強く生きてほしい。」
そう願わずにはいられませんでした。


エミリーへの手紙  キャムロン・ライト
物忘れがひどく、頑固なだけの老人だと思われていたハリー。
彼がこの世に遺したものは、自作の詩集だった。ごくありふれた
普通の詩集のように見えたが、その中には素晴らしい秘密が
隠されていた。ハリーが家族に伝えたかった思いとは?

詩を読む楽しさ、詩の中に隠されたパスワードを見つける楽しさ、
そして、そのパスワードで開かれるメッセージを読む楽しさ。
この本には三つの楽しみがあります。
ハリーが遺したメッセージ・・・。それは読む人全ての心に響きます。
「人が人として生きていくうえで大切なことは何か?」ということが
切々と書かれています。
誰もハリーの心の奥にあった思いを知りませんでした。
「同じ材料からさまざまなお菓子が作られるように、人も与えられた
同じ材料をどう生かすかで、さまざまな人生を作ることが出来る。」
「人生の選択は裕福か貧乏かでもなく、有名か無名かでもなく、
善か悪かだ。」
メッセージをひとつひとつ読むことにより、残された家族はハリーの
深い愛情を知り、そして徐々に家族の絆を深めていきます。
ハリーの思いをしっかりと受け止めたとき、彼らは自分たちの
人生を見つめ直します。
そしてこの本を読む人もきっと自分の人生を見つめ直すことでしょう。
いつまでもいつまでも、心に深く残る作品です。


奪取  真保裕一
友人雅人の借金のためにヤクザに脅され、偽札造りを思いつく
道郎。だが、そのことがさらにヤクザに目をつけられる原因と
なってしまう。窮地を救ってくれた「じじい」と、道郎は本格的な
偽札造りに取り組むことのなるのだが・・・。傑作長編サスペンス。
日本推理作家協会賞、山本周五郎賞、受賞作品。

友情、恋、スリルとサスペンス。笑いあり涙あり。二転三転する展開。
一つの作品の中にこれでもかというほど、いろいろなものが詰まって
います。しかし、決して詰め込みすぎの感じはしません。
読む人を大いに楽しませてくれるのは、やはり作者の力量でしょうか。
専門的な描写は理解しづらいですが、それも偽札造りの過程では
必要不可欠なのだと、納得させられてしまいます。一つ一つの
細かい工程の描写は、読んでいても思わず息を呑むほどリアルでした。
「完璧な偽札を造ることが出来れば、誰も気がつかず、誰も傷つける
ことはない。いわば完全犯罪も同じだ。そうなれば偽札造りは犯罪を
越える。」この言葉に全てが凝縮されているような気がします。
はたして偽物は本物になりうるのか?ページをめくる手が震えるほど、
ドキドキしました。ラストもお見事!楽しめる作品です。


白い巨塔  山崎豊子
苦労して国立大学を卒業し、外科医として抜群の腕を持つまでに
なった財前五郎。彼の野望はとどまるところを知らなかった。
人々の思惑が渦巻く教授選、学術会議選、そして過信が招いた
誤診裁判。その果てに彼を待っていた運命とは?

大学病院はまさに白い巨塔です。その中にいるのは、地位や
名誉を追い求め、権力を振りかざしうごめく人間たち。金が動き、
策略がはりめぐらされる・・・。それは、自分が医者であることを
忘れているのではないかと思うほどです。ここでは、患者さえも
利害関係の道具の一つにすぎません。
医者本来のあるべき姿。それを貫こうとする里見の姿には感動を
覚えます。どんな人間も恐れることのない財前も、里見にだけは
かないませんでした。
地位や名誉を手に入れた財前を待ち受けていた運命。その運命を
前にしたとき、彼は何を思ったのでしょう。苦労して手に入れた
地位も名誉も、彼を救ってはくれませんでした。何とも皮肉な結末・・・。
いつまでも余韻が残る作品でした。


風紋  乃南アサ
一人の平凡な主婦が殺された。この事件はやがて周りにいる
人たちを次々に巻き込み、運命を変えていく。被害者の家族も
加害者の家族もみな、傷つき疲れ果てていた。果たして、彼らの
今後はどうなるのだろうか?重いテーマを扱った問題作。

愛する家族が殺された・・。突然肉親を奪われた衝撃が高浜家を
襲います。待っても待っても帰ってこない母。死んでしまったことを
認めようとしない真裕子。悲しみが深いあまり思いっきり泣くことも
出来ずにいる姿は、あまりにも痛々しくてあわれです。だが世間は、
同情する人ばかりではありません。興味本位で家族の恥部を暴き、
書きたてる雑誌社。殺される方も悪いと非難する匿名の電話。
そして近所の目。家族はもう同じ場所で、普通の生活さえ出来ません。
被害者の家族なのに、周りから追い詰められ、住むところさえ
変えなければならなくなります。ますます傷ついていく父と娘。
どう慰めていいのか、その言葉も思いつかないほどです。
しかし、もう一方でも悲劇が起こっていました。加害者の妻と子供です。
夫が逮捕されたその日から、人の目を逃れて生活しなければ
なりません。「殺人犯の家族」として生きなければなりません。どんなに
願っても平凡な日々は戻ってこないのです。そのことが胸を打ちます。
殺人事件、それは被害者と加害者の問題だけではありません。
様々な人の運命をも次々と変えていきます。そのことが分かっていても、
人は罪を犯します。毎日、様々な事件が起こります。その事件の陰で
いったいどれだけの人が傷つき泣いていることか・・・。
作者のこの作品に込めた思いはあまりにも重く、そしてあまりにも
切ないものでした。


終戦のローレライ  福井晴敏
日本はどう負けるべきなのか?敗戦の色濃い1945年8月。
待っているのは国家破滅の道なのか?
太平洋の「魔女」と呼ばれた秘密兵器ローレライは、果たして
日本を救う女神になるのだろうか?
人とは?生きるとは?信念を貫くとは?さまざまな問題を
投げかける、胸を揺さぶる感動の長編作。

「戦争」・・。人の行為の中で、こんなに愚かなことが他に
あるでしょうか?誰のために、何のために戦うのか、はっきり
分からぬまま散っていく命。戦争という狂気の中、人は人で
あることさえ忘れていきます。犠牲者を平気で踏みつけ、
破滅への道をひたすら歩もうとする日本。
「伊507」の男たちは、日本を守るために命をかけて戦います。
たとえ自分たちがどうなろうとも、日本を未来あるものにするために。
その姿に、涙がとめどなくあふれました。人の愚かしさ、素晴らしさ、
全てを知り尽くした男たち。不可能かもしれないことに最後まで
立ち向かう姿は、涙無くしては読めません。
海の上に流れる男たちの歌声、それは郷愁か、未来へ希望を
つなぐためのものか?いや、両方だったのかもしれません。
死んでいった男の一人が残した言葉。
「子に誇れる国を作れ。自由を腐らせるな。」
今の日本国家は、戦争の犠牲者たちに胸を張れる姿なのでしょうか?
そう考えたとき、また新たな悲しみが胸を襲ってきます。


解夏  さだまさし
難病のためにしだいに失われていく視力。失明という現実に
とまどい、隆之は故郷の長崎へ帰る。東京に残された恋人の
陽子は、彼の後を追い長崎にやって来る。二人はある寺で、
一人の老人から「解夏」の話を聞く・・・。表題作「解夏」を含む
4つの短編を収録。

逃れられない運命を前に苦悩し、そこから未来へつながる一筋の
光を見出していく「解夏」。
心が通わぬと思っていた人が、実は自分を愛してくれていたのだと
知る「秋桜」。
ダムの底に沈んだ村に思いをはせ、過去から未来へ希望を
つなげようとする「水底の村」。
家族としっかり向き合うことの大切さを描いた「サクラサク」。
どの話も、切ない中に温かさを持っています。
人は何事からも目をそらさずに、過去も現在も未来も、しっかりと
受けとめて生きていかなければなりません。作者はそのことを、
人と人との関わりの大切さを含めながら、描いています。
「人は大切な身近な人を、身近だからこそ、きちんと見ていないの
ではないか。」
「サクラサク」の中の一文が、とても強く印象に残りました。
心が優しくなれる、そんな本です。


卒業  重松清
「自分が生まれる前に自殺した、父のことが知りたい。」
渡辺のもとに、かつて親友だった男の娘が尋ねてくる。14歳の
亜弥に渡辺は少しずつ、親友と過ごした日々の思い出を語り
始めるが・・・。表題作を含む4つの短編を収録。

この本には「卒業」のほかに、死にゆく母のかたわらで、妹と
二人で過去をたどる「まゆみのマーチ」、最期の時を自宅で
迎えたいという父の願いを受け入れ、在宅医療に踏み切る
「あおげば尊し」、実の母の思い出と義理の母への思いを
綴った「追伸」という作品が収められています。
どの作品にも、人の人に対する思いがあふれています。
読んでいて思わず涙がこぼれました。
人が生きていくということは、どんなつらいことにも向き合わ
なければならないということです。しかし自分を理解し、愛して
くれる者がいたら、そのつらさに人は耐えていけるし、乗り越えて
いけると思います。作者は真正面から、そのことをしっかりと
描いています。親子の話として、兄弟の話として、そして夫婦の
話として。
人が人に思いを伝える時、複雑な言葉はいりません。ただ一言、
相手に「好き」と言うだけでいいのです。その一言があれば、
人は前向きに生きていくことが出来るのではないでしょうか。
つらい過去を卒業し、新たな未来へ一歩を踏み出せるのでは
ないでしょうか。


すべての雲は銀の・・・  村山由佳
愛し、信じていた恋人に裏切られた。彼女の愛したのは兄貴。
傷ついた心を抱え、祐介は信州菅平にやってくる。そこでの
生活の中、祐介は傷ついたり悩んだりしているのは自分だけでは
ないことを知る。いろいろな人たちのやさしさや、温かさに包まれて、
彼はしだいに心の傷を癒やしていく・・・。

誰もが大なり小なり悩みや苦しみを抱えながら、日常の中では、
人にそれを知られないように生活しています。けれど、生きることに
痛みを感じる時があります。寂しくてたまらなくなる時があります。
そんな時人は、誰かに寄りかかりたいと願うのでしょう。祐介や、
彼を取り巻く人たちもそういう思いを抱えて生きています。
自分の弱音を聞いてくれる人、泣きたい時に黙って泣かせてくれる
人・・・。そんな人が身近にいたのなら、どんなに心強いことか。
傷ついてしまった心は、なかなかもとには戻らないかもしれません。
でも、人の思いやりが心の痛みをやわらげてくれることでしょう。
「Every cloud has a silver lining.」(どんな不幸にもいい面はある)
この言葉が光り輝いて見えます。